赤ちゃん

実は叔母には「ちさ」の上に「りえ」って娘がいた。


県外に就職してたらしい。


その「りえ」が急に帰っきた。


「りえ」は妊娠していた。


相手とは結婚しないと。
でも、産むと。


「りえ」は「ちさ」とは全然違ったタイプの顔で、後で知ったことだけど、父親が違うらしい。


叔母は激高、「ちさ」も泣くわで、修羅場になっていた。


近くに住んでいた叔父まで来て説得するも、「りえ」の意思は固く、産むことになった。



でも、彼女は産んだだけだった。



産後、2ヶ月も経つと、叔母と一緒にパチンコに明け暮れ、
赤ちゃんを当時小学生の私に預けた。


赤ちゃんが泣くと走ってパチンコ屋に呼びに行った。


何時でも。


赤ちゃんは可愛かった。


泣いても可愛かった。



こんな、生活でも楽しみを見つけられたと思った。
小学生なのに、面倒が看れると思った。


でも、しばらくして、「りえ」は赤ちゃんを連れてアパートを出た。



※個人名や関係、地名など個人の特定につながる部分は脚色しています。

寝る努力

叔母は私たちを19時には寝かせました。


6畳二間の狭いアパートでしたので、電気はついてましたし、テレビもついていましたが、そこで寝かされました。


夕食も私たちには適当なものを食べさせ、私たちが寝てからホットプレートで焼き肉をしたり、フライドチキンなんかを買ってきて食べていました。


翌朝残った骨を出され、必死に肉を見つけて食べました。


今となっては情けないですが、当時は必死でした。


お風呂やトイレ掃除が終わってないと、狭いベランダでペットのインコと寝かされました。



帰宅が遅れると家に入れてもらえませんでした。


何度か近所の方が声をかけたり、役所の人が様子を見にきましたが、
「好きで外に出ている」と言わされました。


叔母はわざわざ大きな声で
「明日は外が好きだねー」と言ったりすることもありました。


※個人名や関係、地名など個人の特定につながる部分は脚色しています。

生まれたときから

妹が産まれたとき母は癌だったらしい。
ベタだけど、妹を産むことを選んだ。



私がかわいそうだと。


私は両親40歳の時の子供。


おまけに母は癌。


ずっとは支えてやれない。


だから姉妹で助け合って生きてほしいと。


私には「明日」
妹には「日寄」


と同じ漢字を使った名前をつけた。
 


母は妹を産んで3年で他界。


その後父は生前出来た母の借金返済のため、出稼ぎ。


私たちは遠縁の叔母に預けられた。





叔母には「ちさ」という娘がいて、私の6個上の中学生でした。 
 
叔母は父に頼まれてしょうがなく、送金することを約束に私たちを見てくれてるようでした。


最初の日私たちを見て


「かわいくない」と言ったのをよく覚えています。


私はここで、嘘をついて生きていくことを学んだと思います。
※個人名や関係、地名など個人の特定につながる部分は脚色しています。